中川一政の言葉に、
絵の勝負は美しいとか醜いとかいうものではない、生きているか死んでいるかが問題だ。
美しいように見えても、死んでいるのがある、みにくいように見えて生きているのがある。
中川は生きているのが芸術だと繰り返し述べています。
工芸の道を歩くなとも。
絵を描く人は知らないうちに、自己模倣に陥ることがあるようです。洗練されているけれど、画面が
硬直し、生命感が感じられなくなってしまうのです。
日本画のように、花鳥風月のテーマがあっても、やはり、生きているものとそうでないものが見ることが出来ます。
かえって、専門家でない人や子供が見抜くようすね。
あの、裸の王様を指摘した子どものように。
さて、現代では、インターネットのモーレツな拡大により、アーティストが発表できる場所がふえました、
ユーチューブなどでは、盛んに老若男女問わずに表現しています。
ただし、音楽やパフォーマンスは、良く伝わりますが、この、絵の分野においては、そうはいきません。
イラストや、漫画、またはイラストのような絵、などの平面はそうではありませんが
油絵、油彩となると難しくなります。あと、にじみのある水墨画などもです。
やはり、実物の持つ重さや、色の切れ、タッチやにじみなどがうまく表現できないからです。
平面ですが、彫刻を写真に写したような空虚さが出てきます。
これは、4K8Kの画像でとったとしても表現はできません
これは、展覧会場で本物を見ないと感動が伝わらないというものです。
画家の息づかいや筆、手先、指先を感じることで、生きる絵を鑑賞できるのです。
画家が使うナイフが刺さるように、グサッとくるのです。
人間の魂に働きかけるということでしょうか。
音楽でマイナーコードが寂しく、メジャーコードがなにか陽気に聞こえるように、
絵の場合、構図と色で直接働きかけるのです。
魂は原始的で、大脳旧皮質(生存ということに深くかかわる)に近いと考えると
芸術は生存に必要なことである。とも言えますね。
ラスコーの壁に絵を描いた人々もそうだったのでしょう。20000年前から
少し濁った色など、まさに生きる喜び、生命感のある絵でした。
ゴッホの星月夜を見た時には、絵の周りの空間10m四方が、パリパリとガラスが割れるような緊張感、
精神が壊れる一歩前の、迫力に生きる力と破滅に向かう力が交錯して、息をするのが苦しいほどでした。
ムンクの桟橋の少女たちを見た時は、その水面を見つめる少女たちの複雑な思いが見る人に、思春期のやるせないような
感情を伝えてきて、ドキドキと胸が高鳴りました。
このように、生命を感じられるのが芸術なんだといことは、
腑に落ち感心しました。
中川先生凄いです。