苛烈王ハーラル3世 ノルウエー王 1050年オスロ市を建設

この、苛烈王という名前がいかにも強そうですね。1050年オスロ市を建設した王です。

イギリス侵攻中に、戦死(1066年)同じ年にエドワード懺悔王も亡くなる。

この懺悔王というのもなかなかカッコいいですね。修道士でキリスト教の聖人として名が高い人です。

ムンクの生涯
ムンクの生まれたのはオスロ市ではなくて、リョーテン村ですが、1歳にはオスロ市に引っ越してきました。
母親は5歳の時結核で死亡、姉ソフイエ14歳の時15歳で結核で死亡。
結核は恐ろしい病気ですね。
18歳からオスロ美術工芸学校に入学、
22歳アントワープ万国博覧会に出品、印象派モネ、ピサロの絵に感銘を受ける。点描風を研究
23歳「病める子」が酷評を受ける
26歳オスロで初個展、政府奨学金取得しパリへ、軍医の父が死亡
27歳心身の疲れから、2か月入院する
29歳オースゴールストランで夏を過ごす。ベルリンの展覧会はさんざんで酷評を受け1週間で閉鎖    版画やリトグラフの技法を吸収し、表現の幅を広げ、平板化を模索
32歳ベルリンで個展、劇作者イプセンから「敵が多ければ多いほど、味方も多いものだ」と激賞する。

弟も結核で死亡、妹のラウラは統合失調症を発症し、また、死と不安が支配する。
34歳アンデパンダン展に出品、オスロの個展は好評だった
36歳恋人トゥラ・ランセンとイタリア旅行、ラファエロをローマで見て感動する。
39歳ベルリン分離派展に「生命のフリーズ」全作品を出品、支援者マックス・リンデ博士に出会う。

恋人トゥラ・ランセンとオースゴールストランでの別れ、   

 原因は、トゥラ・ランセンは結婚を迫り、ムンクは距離を置くようになる。久しぶりにオースゴールストランで 面会が設定されたが、トゥラが自殺をするといって、拳銃を持ち出したため、ムンクともみあいになる。    結果、銃は暴発し、左手中指第2関節を打ち抜き、二人の関係は破局を迎えた
41歳ベルリン分離派の正会員になり、展覧会は成功を収める。ベルリンを拠点とする
42歳アルコール依存症治療のため、半年間入院
45歳コペンハーゲンで神経衰弱で倒れる。半年入院
46歳ノルウエーに帰還する。クラーゲリョウに家を借りる
50歳イエーリョイ島にアトリエを購入する。
53歳オスロにエーケㇼ邸購入
59歳フレイア・チョコレート工場食堂に12点のフリーズを描く
64歳ベルリンとオスロで大回顧展、評価が定まる
67歳眼の病気のため制作が困難になり始める
74歳ナチスドイツによりドイツの美術館に収蔵されていた82点が退廃芸術として売却される
77歳ナチスノルウエー侵攻、占領軍との一切の関わりを拒否する。
81歳永眠、すべての資産をオスロ市に寄贈、オスロ市は生誕100年の1963年ムンク美術館をオープンさせる。      油彩1008点、版画15391点、素絵4443点、彫刻6点

    ムンクは12月12日生まれの射手座です。

    冒険と旅行の星座、束縛をきらい自由に生きる、しかし、身内のうち続く不幸から、人間の不安や嫉妬、病気、生と死がテーマとされています。

    さて、ムンク風になってきた絵も、だんだんテーマ的に難しくなってきましたよ。

     

    腕組みする人物と、窓の中には電話する人、不幸の家には黒い人影が、月の夜です。

    ある種の疎外感、「悪い知らせ」か「待ち望んだ結末」かは見る人の状況によって違うでしょうね。

    白い柵は、つながりを拒否しているようですね。

    人物の顔は、少し原始彫刻を意識して、根本的な人間の代表となるようにしました。

    しかし、月夜とは、ドラマチックでムンク的ですね。

    「月光」という絵がありました。

    やはり、白い柵の前に女性がうつろな目で立っている絵です。

     

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