系譜とは、大切な意識ですね。
自分はどのように生きるのか、生き方の問題ですね。
芸術学問で師弟関係などで深いつながりをもつことです。
流行りすたりではなく、脈々と流れる美学を受け継いでいく大切な感覚ですね。
クリムトとシーレは師弟関係にあり、その、系譜は世紀末芸術です。
クリムトは1907年若き青年シーレと出会います。
ピカソが「アビニョンの女」を描いた年
すぐに二人は意気投合しました。
クリムトの計算された豪華さと、シーレの世紀末感覚が系譜を感じさせますね。
クリムトは自分のモデルを使わせたり、デッサンを交換したりなど気の合った二人でした。
宮廷につかえ、天井画などを数多く手掛ける。
保守派といってもいいでしょう。
その時のクリムトはもうすでに名声を得ていたし、30歳ほども違うので
クリムト父とシーレ息子という感じでしょう。
系譜は確かに存在しました。
シーレは知人への手紙で
「今日はKのところに、午後ずっといました。彼はすべてを見せてくれました」とあります。
二人の親密度がわかりますね。
きっと、クリムトが収集していた、ジャポニズム関連の浮世絵などを見せてくれたのでしょう。
エロスという観点では、浮世絵の春画なども収集していたでしょう。
シーレの方に色濃く出ていますね。
豪華で瀟洒で洗練されたクリムトの絵、下描きは何度も、そして、方眼紙に計算された細かい比率、
デッサンの切れの良さ。
また、クリムトはその装飾性で表現主義の画家たちから批判を受けていた。
しかし、アカデミーからの決別と、ウイーン分離派へ参加など激しく時代は動きました。
シーレの世紀末に対する恐れと期待、死の恐怖などがプラスされた画面、死と乙女、多くの自画像
表現主義への移行が見て取れます。
シーレは早くに亡くなったので、作品数が少ないですね、非常に残念です。
妻がスペイン風邪で亡くなってから
僅か3日後
シーレ1918年10月31日死去(スペイン風邪、享年28歳)写真を見るといい男ですね。
一方クリムトは、まだまだ長生きするつもりだったのでしょう。亡くなったときには、制作途中の絵がたくさん残されました。
死因は脳卒中、あっという間の突然死だったのでしょう。
彼の、お父さんもまた脳卒中で、若くして亡くなっていたので、遺伝したのでしょう。
クリムト1918年2月6日死去(脳卒中、享年56歳)
この世紀末に、二人がかたい系譜でつながっていたのは確実です。
風景画は、真四角Sのカンバスを使い、これは、確かに似ているなと感じられます。
二人はあの世で再会し、何を話し合ったのでしょう。
きっと、まだまだ描きたかったということでしょう。