ムンクは、幼い時に、母と姉を結核で亡くし、
その不安と絶望が心の底にあり、それを抱えながら絵を描き続けました。
母と姉を心から慕いあこがれていたのです。
ムンクの絵の原点です。
しかしながら、
若いムンクは、女性遍歴を続け、その中で不審を持つようになります。
女性にあこがれを持っていた青年がだんだん、女性恐怖症になっていきます。
女性の本質を見ると不安と恐怖が襲ってくるのです。
そののちに衝撃的な事件は起こります。
女性の持ってきた拳銃による暴発事件です。
ムンクの指を一本吹き飛ばしました。
1892年、クリスチャニア(オスロ)の個展の後、ベルリンでも開催したが
僅か8日で閉会に追い込まれる。
酷評の嵐、新聞雑誌は嘲笑の記事を載せ、早くこの汚らしい絵を撤去せよ
となりました。
今では、信じられないですが、まだ印象派すら認められずに、写実主義がはびこっていた時代。
ムンクは早すぎたのです。
でも、すでに29歳、この出来事は、
ムンクを苦しめたでしょうか。
いいえ、ムンクはこれほどのスキャンダルになることを面白がっていたようです。
しかしながら、少数の賛同者はいました。
賛同者は、のちにドイツの分離派へと突き進んでいきました。
ベルリンからはなれ、他の場所で巡回展を開催したのでした。
最後はコペンハーゲンまで行きました。
若い賛同者との交流の中で、マドンナが現れ、彼らを惑わせます。
ドゥーシャ(ダーグニィ・ユール)医学生の彼女はムンクの幼馴染、
知と美貌と優しさを備えた彼女は、アイドル、マドンナ、
みんなのドゥーシャという肖像画を描いたほどでした。
友人たちとの間に起きるライバルたちのせめぎ合いは
ことは、まさに心理戦のよう。
彼女は、ムンクを選びませんでした。
他の男と結婚したのです。
ドゥーシャはかわいそうなことに、狂ったロシア人に拳銃で撃たれて死にました。
全く偶発的な事件です。
狂人がたまたま通りかかり、ピストルを突き付けてきたのに、
冗談だと思い笑いこけていた彼女に、
いきなり発砲し、そのあと、自殺したのです。
マドンナは死にました。