函館にいたのでコア情報があります。
この、函館シリーズはまだ続きます。さて、玄人編と銘打ってるのに
大メジャーポイントを出してきたね、とおもわれるかもしれませんが、最後までお付き合いください。
函館山の標高は、334メートル、333メートルなら覚えやすかったのにね。
もともと島で、潮流によって運ばれた砂が積み重なって、陸繋島となりました。
ブラタモリでもやってましたね。
でも、それは5000年も前の話、遠いですね。
さて、今日紹介するのは、ロープウエイが着く山でなく、その、尾根を歩いていく、
「千畳敷」という場所です。
元々、明治時代には要塞が築かれで、地図からは消え、写真、スケッチまで禁止になり、一般の人は近づけなくなりました。そのために、自然が保護され、絶滅種や希少植物の宝庫となってます。
さて、ロープウエイをおりたら、向こうに見える津軽海峡にむけて歩き出しましょう。なるべく複数で行きましょう。クマの心配は全くありません。が、ある心配が。
歩いていくと、(約1時間)結構ある。凄く見晴らしのいいところにつきます。そこが、砲台跡です。
昔は大砲があったとされますが。第2次世界大戦時は、木製のニセ大砲が、威嚇のために置かれていたという情報もあります。
木がなく、一面の草原です。千畳敷の由来です。目の前の津軽海峡は、国際海峡なので、米、ロ、日、中、の潜水艦が通ります。(見えませんが)
砲台跡、地下要塞は入れます。北大の地震計が設置されてます。という看板の所では、悪い子供が一生懸命ジャンプしているのが、たまに見られます。
吹き上げる風がものすごいので、木が生えないのでしょう。うっかり、海の方に踏み出すと止まらなくなり、斜面を転げ落ち、そのまま、海に落ちてしまうので注意が必要です。
でも、天気が良い日には、遠く遠くまで見えます。気持ちのいいスポットです。
さて、複数で来たあなたたちは、帰りに、碧血碑によって行きましょう。一人ではいかないでください。
戊辰戦争、函館戦争で亡くなった戦没者の慰霊碑です。生き残った榎本武揚が建てたものです。
賊軍とされ、明治政府の命令で、倒れたままのところで朽ち果てたままにされていた兵士を。哀れに思った、浅草出身の熊吉親分は、子分たちと、遺体を回収し、あるお寺に買い埋葬した。
怒った明治政府は死刑を命じたが、歎願、助命が出され釈放された。やがて、碑を作ることが許され、本埋葬することができた。管理をし、89歳で親分はなくなった。
この、逸話を知ってから、そこに行ってみると、日本が、幕末から明治へと激動する時代に、義理と人情でこの碑をつくった親分の気持ちがわかるのです。
1人で受け止めるにはあまりに重いかもしれないので。