剥離、剥落に感じた生命感
東京に来ました。絵を見ました。まずは、東京ステーションギャラリーの坂田一夫から始めました。次に三菱3号館で吉野石膏のコレクションもやっていたので、それを見て、次の日は、上野まで出かけて行って、西洋美術館のハスクブルグ家のコレクション、最後に、六本木の新国立でブタペストまで見るという忙しさ。札幌に住んでいるとめったに絵を見る機会が無いので頑張っちゃいます。
良かったのはステーションギャラリーの坂田一夫です。
初期のころより晩年のほうがよくなる画家は、あまり見かけませんが素晴らしいと思いました。無機質を追及した結果、有機物が生まれてきたということでしょう。
阪本繁次郎の静物画も2点ほどあって、それが感動的に良かったです。塗り重ねられた追及の果てに、淡いピンクや青の安らぎが生まれているのです。
次の日、上野にきて、西洋美術館のハスクブルグ家のなんとかもみました。大昔に死んだ超お金持ちの肖像がは駆け足で見ました。
絵よりも、甲冑のほうに心が惹かれました。
さて、上野の西洋美術館のお目当ては、常設展のセザンヌ2点と10点ほどのモネの部屋です。こんど、新しく保存が悪く剥落した「水連」も常設展示に入りました。
モネの部屋で小一時間過ごすのがきまりです。パリのオランジェリー行きたいですが、いつのことになるのやら、そして、ここで剥離・剥落した睡蓮の展示を見て、はっとしたのです。
そこで、坂田の絵を思い出したのです。坂田の展示の中に、坂田の水害にあって、アトリエの絵が台無しになってしまった。
「嘆いていたら、その画面の痛み、剥離から新しい着想が生まれ、展開が始まった。」というくだりがあって、確かにところどころはがれていたほうが、何やら生命感を感じるのはなぜでしょう。
坂田は、わざと剥離させた絵を試みますが、あまりうまくいかないようでした。作為的なことは、人生の中ではあまり役に立たないということでしょうか。
そのときは、抽象画だったら、そんなこともあるよね。と思っていて、ここで、もろ具象であるところの、剥落した水連をみても感じるこの生命感は何でしょう。
まさか、生命とは、朽ち果てることとセットでしか成り立たない。ということでしょうか。
生き生きした絵、朽ち果てている絵、both OKということでしょう。
東京は10度以上でした。この冬真っ最中なのに、異常気象でしょうか。
新千歳で降りたら、一気に冷気が吹き込みました。この冷たさがいいのです。
「また、地味に始めようという気持ちになるからです」
未完成の美しさととはよく言われますが、完成したものが壊れていく美しさもあるのだなと妙になっとくしました。
人生においても、年と共に失われていくものに、美しさを発見できるときすね。
PS,六本木、新国立のブタペストも行きました。絵は美人さんばかりでした。
そのなかに、孤児の少女たちの絵が混ざっていました。
さすが、ネーデルランド、風俗絵の本場ですね。
大好きな、ヴァニタス絵もありました。なにげない静物に、人生のはかなさを暗示させるモチーフをいれるという絵です。
今回は腐りかけたフルーツ、枯れた葉、ひっくりかえったカニ、傾いている皿に、零れ落ちそうに鳴っている山盛りの実などでした。
ヴァニタス画は、もののあはれをモチーフとする、日本人好みの絵です。平家物語のくだり、「盛者必衰」のことわりを西洋画の中に発見する楽しさ、これが醍醐味です。