遠近法をどう考えるか
少しは必要だが、絶対ではないというのが今の考え方ではないでしょうか。
線遠近法と空気遠近法があるとされていますね。でも、線遠近法は、絵画の場合あまりにも綿密にやると、建築の設計図のようになってしまうので、動きが止まり感動がなくなってしまいますね。
空気遠近法と呼ばれれるものは、遠くのものはかすんで見えるとか、小さくみえるといった、ことを元にしているようです。これは、一生懸命描いていると、そうなることがありますが、これも多用することでリアリテイを失うようです。
表現主義では自分のいいといったものを、そのまま表現していいので、描きたいものが大きくなったり、筆の勢いで曲がったるすることで、逆に画面に生命感が生まれていく、そんなことが頻繁に起こりますね。
私の好きなスーチンの風景画がそうですね。
スーチンはこのゆがんだ風景画で支援者を得て、生活が安定し、たくさん描くようにになりますね。
一連のセレの風景は、木から道路から建物までひん曲がり、厚塗りでスーチンの熱中度合いがわかります。
その画面の生き生きとしていることといったら、まさしく油絵という感じがします。日本で言えば中川一正の力強さが魅力ですね。
さて、F130Bの2回目です。
画面右に電柱のようなものを入れてみたら、なにか、道路のようなものが出現し、
真ん中で立っていた男が、勝手に歩き始めました。
勝手に、歩き出しましたが、また、立ち止まるかもしれません。
画面の一部を変更することによって、人物が動き出すのがおもしろいですね。
遠近法によれば、消失点が気になる所ですが、そこはあいまいにしておきます。
奥には街を描こうと思っています。
雪の中で、そこは暖色の空があり、雪の中のオアシス、みたいな感じですが。
白と黒にして、色のない街で、煙突からは黒い煙が立ち上るというのも、雰囲気がありますね。
描きすすめていくうちに、自然にどっちかになるでしょう。
遠近法の話になりましたが、人間の目は、画面の真ん中に焦点が合うようにできているので、画面の中心に円形上に焦点が合って、はっきりくっきり
その周りはボケているはず。
だから、隅々までしっかり描くと、真空状態の絵になっちゃいますよ。
空気感を空間に維持したい。どうするか?
セザンヌの後半の絵は、周りはほとんど描きかけではないですか、という作品がたくさんありますね。
フイアデルフイアの大水浴図の、はじの方はほとんどデッサンのみですね。
全体としてみると、それは、正しいことがわかります。